工学博士 藤澤好一 (芝浦工業大学建築工学科 教授) |
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●サスティナブル工務店 サレックスの主要メンバーの一人、青木宏之さんが昨年、建設大臣賞を受けた。番匠塾での人材育成や審議会などを介しての提言が住宅産業の発展に寄与、貢献したということでこの栄誉となった。積善の余慶、この受賞はサレックスのメンバーにとっても誇りであり、大きな励みとなる。祝着至極、ともに慶びたい。 受賞の慶びを青木さんは記念のテレフォンカードに顕した。社屋前で番匠塾の塾生も含む全社員が顔をそろえた記念写真に「おかげさまで建設大臣賞をいただきました」と刷り込んだ。そして「創立50周年」という文字に、さらなる持続の決意を忍ばせた。カードに添えて「…、2000年に弊社は会社創立50周年を迎えます。これも全て、ご厚情いただいた皆様方のおかげと感謝申し上げます。今後とも、よろしくお願い申し上げます」とある。 地域に必要とされる工務店、の条件の一つがサスティナブル、地域の顧客、住まいと町とともに活動を持続させることだ。 3代にわたって50年。4代目は修業の身だがスタンバイ充分、協力の専門職も同じように次の代が育っている。次世代の大工も番匠塾から次々と巣立っている。千年紀の節目を50周年に重ね、磐石の布陣としたい、そんな青木さんの決意が伝わってくる。 |
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| ●工務店の由来 青木さんのテレカに添えた挨拶文を注意深く読むと50周年は〈会社〉設立から。初代が清水から出て来て現在のところで開業したのは昭和17(1942)年だと聞いていたから勘定があわない。創業の起点を昭和17年にすれば60年近くになるのだが、青木さんは会社の設立からカウントしている。「青木工務店」という看板を掲げた日を開業の日としているのだ。それはともあれ初代が厚木飛行場で陸軍の仕事に大工として携わって以来、営々と現在の地で文字通り「地域に必要とされる工務店」に徹してきたことになる。 屋号、社名はそのまま引継げるが、個人の職業である大工を引き継ぐわけにはいかない。歌舞伎などのように三代目梅太郎襲名というように地盤も看板も、そして人気も引き継ぐような世界ではなくなっている、ということのようだ。 歴史的にみても工務店という名称は比較的新しい部類に属する。スーパーゼネコンの一つ、竹中工務店が恐らくその最初だろう。それが明治42(1909)年に設立された合名会社竹中工務店。初代竹中藤兵衛正高が名古屋で創業したのは慶長15(1610)年だが、14代竹中藤右衛門が神戸に進出した明治32(1899)年を創立第1年としている。この時の看板は「竹中藤五郎神戸支店」、まだ棟梁としての個人名だった。つまり、次男だった錬一が宗家から神戸に出て最初に手がけたのが洋風建築工事だった。この時点が現在の竹中工務店の「承業の日」、それから10年後に錬一は14代竹中藤右衛門を襲名するとともに、「竹中藤五郎神戸支店」改め「竹中工務店」とした。 工務店とするにあたっては建設業の歴史に詳しい菊岡倶也氏によればこうである。組や土建業はどうもふさわしくない、工務所というと設計事務所のような印象を与える、ということからそれらの中間的な意味合いをもたせ「工務店」としたという。設計施工一貫はわが国の伝統的な棟梁による生産体系でもあり、その性格をいまも色濃く引継いでいるゼネコンといえる。 |
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| ●町場工務店の50年 わが国の住宅生産史からみると町場工務店の50年は勲章ものといえそうである。竹中工務店は別格としてもそれでも100年にはまだ間がある。工務店という単語も筆者の手持ちの辞書のいくつかを調べてみると昭和33年新版初版「三省堂・広辞林」ではまだ登場しない。これには「工務」とだけあって、その意味も(土木・建築などに関する事務)とある。 50年前のわが国といえば戦後復興の真っ只中で、深刻な住宅不足の時代。建設省設置(昭23)、建設業法公布(昭24)、建築基準法公布、建築士法施行、住宅金融公庫設立(昭25)など、現代につながる体系が相次いでスタートした時代であった。戸建て住宅の世界では住宅金融公庫住宅だけでは焼け石に水といった状況で、しかも煩雑な手続き、高すぎる頭金で、高値の花の存在だった。そんななかで人気を集めたのが日本電建、殖産住宅、太平住宅といった「家の月払い」会社だった。 住宅金融公庫、住宅割賦会社といった金融機能が介在することで町場の大工棟梁も必然的に請負契約を締結する事業所の態を整えざるをえなくなった。町場に「○○工務店」という看板が掲げられるようになったのはこのころからである。「青木工務店」はその走りのような存在であった。 |
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| ●事業所統計にみる大工・工務店 大工は職業で個人の属性だから、統計上は国勢調査で扱われる。しかし、工務店は個人経営でも事業所だから事業所統計で集計される。事業を行っているその場所が事業所とみなされ、場所ごと、経営者ごとに区切られて、一事業所とカウントされるのだが、大工、左官、タクシーなど事業を行う場所が一定しない場合は自宅を事業所とみなしている。したがって看板があがっていない事業所も含まれていると思われる。一人親方の場合は請負の内容、規模にかかわらず事業主として扱われるケースも少なくないようだ。 いずれにしても統計上は木造住宅の建設を総合的に請け負うのが総合工事業としての「木造建築工事業」、これに対して木工事の範囲だけを専門工事業として行うのが「大工工事業」として区分されている。 示した図はこの両者の動向を見たものだが、50年前は統計上ではまだ両者の区分がなかった。棟梁が仕事を請け、大工として工事をこなしていた。区分されるようになった60年前後は事業所数では拮抗し、従業者数では大工工事業が圧倒していたが、1980年代からは木造建築工事業が大工工事業を上回るようになっている。職別工事業の大工工事業に代わって総合工事業の木造建築工事業が事業所数でも従業者数でも大きく勢力を伸ばしてきた。統計上では、職業としての大工が企業としての工務店のもとで下職と化した、と読むこともできる。だが両者の間に明確な違いがあるようにも思われない。日ごろ大工として工務店から仕事をもらう立場であっても、知り合いから頼まれて丸ごと住宅工事を請負う機会だってないとはいえない。その時の統計調査では木造建築工事業とみなされることになる。 過去、新設住宅着工のピークが1973年の190万戸、したがって、大工を最も多く必要とした時代が1970年代だった。国勢調査では、大工数が80年にピークの94万人にまで増えるが、その後85年には81万人に減り、90年には73万人にまで落ち込んでしまった。両事業所の従業者をすべて大工と見ることはできないが国勢調査の大工数にほぼ近い。木造建築工事業が増えはじめた70年代から80年代前半にかけて事業所とみなされた大工親方も少なくなかったに違いないし、勢いで看板を掲げたものもあるだろう。木造建築工事業は数が増える一方で小規模化し、下請け、孫請けといった重層化が進み、仕事の奪い合いが激しくなるのもこのころからである。 腕のいい大工になって、それから住宅の注文を客から直接請ける事業主へと転進する道はないわけではないが重層化で顧客との接点が閉ざされてしまった。ハウス55、いえづくり85といった生産合理化プロジェクトが手がけられ、プレカットや資材流通カットが広がりはじめたのもこの頃からだ。木造在来の世界にも量産量販の産業化の波が押し寄せてきたのだ。 しかし、合理化が進んだとはいえ、建築・住宅の生産活動を支えるための事業所、従業者数は図の統計のとおりである。建築・住宅の生産活動を支えるために必要だからこそその存在があるのだが生産性の低下は明らかである。現場が細かくなり、煩雑になったこともあるだろう。しかし、そのしわ寄せは末端に及んでいることも明らか。下請けいじめもいよいよ極限に達しそうだ。合理化の還元が全般に及ばない構造にこそ問題がある。その意味では量産量販 の限界も見えはじめた。 |
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| ●再び町場棟梁の時代に わが国の「大工」の歴史は、建造物が木造中心であったことから永らく生産組織のトップの座にあった。律令時代には〈おおきたくみ〉とよばれる国家建設事業役所の技術系長官が、平安時代では造営工事にかかわる瓦葺きや鋳物師などの職種の長が、中世になって座が結成されるようになるとその統率者が、「大工」と呼ばれた。また、中世の木工の長は木工大工とは呼ばずに「番匠」。工事全体の統括者を惣大工、御大工、棟梁と呼んだ。江戸時代は幕府作事奉行のもとで工事を統括したのが大工頭、その下で設計・管理を担当したのが大棟梁であった。明治以降も大工の存在は大きかった。 先で述べた竹中藤兵衛をはじめ、清水喜助、鹿島岩吉などが今日のスーパーゼネコンの礎を築いたのだが、新しい世紀では量的スーパー、巨大組織の時代ではなさそうだ。 町場工務店の50年も地域の大工棟梁がリードしてきたわけだが、これからの時代も地域が必要としているのは組織に埋没しない顔が見えるリーダー(棟梁)の存在である。地域にふさわしい規模で技術とサービスを追求してきた経験と知恵を結集、連結させることでさらなる持続となり、地域に必要とされる工務店の位置を揺るぎないものにすることだろう。 |